心は富士登山

仕事というのは本当に自分を映す鏡だとしみじみ思います。

私の心が仕事に向けて充実していると、当たり前のように仕事が頂けて、毎日が当たり前のように過ぎていきます。

反対に、他ごとに心を奪われたり、仕事の失敗を引きずって心がいじけたりしていると、どんどん仕事が減ってますます閉塞していくように思います。

私にとって目には見えない精神世界が、そこに確かに広がっているように感じるのは、こんな日々の営みがあるからです。

先日の話です。マッサージ施術をしながら、患者さんとお互いの昔話に花が咲きました。

私も患者さんもお互いに片親で育ったのでそんな苦労話をしたりしていました。

「幼い頃にジフテリアを患い、母親と離れたので、母親の顔も知らない。

父親は仕事をしていたので、あまり接することはなく、親しみが薄かったけれど、成人してからはあちこち旅行に連れて行ってもらった。

別府温泉に諏訪湖。いろんな温泉巡りをした。

でも旅行の一番最初は、富士山。
山小屋に泊まり、御来光も拝んだ。
五合目までバスで行っておしまいの人が多いやろ。
私が頂上まで登ったのは、人に自慢できるな?」と話してくださいました。

「今90歳で二十歳の頃に富士登山!すごいです。無茶苦茶に自慢できますよ。」

そんな話を繰り返して、施術を終えて帰ろうとした時です。
患者さんが咽び泣き始められたのです。
話しながら様々な気持ちが蘇ってきたのかと思います。

その涙は、悪いことばかりでなかった人生と今抑え込んでいる自分の事など、いつもは心に蓋をしていることを解き放った涙のように見えました。

私は何も特別なことはしていませんが、話を聞きながら、富士登山をするその方を空からこっそりと見ているような気持ちになりました。
そして、その後の患者さんの涙を含めて、このような時間を誰かと共有できる仕事をさせてもらっている事に心から感謝が湧いてきました。

夏の間、仕事がうまくいかないことも多くて、自らを省みなくてはと思いながらも、心の中で自分に言い訳ばかりしていました。

そんな時に患者さんと一緒にタイムトリップをして富士山に登ったような気持ちと、その後の患者さんの涙は、私の心まで解放してくれました。

長い間ブログを書く気持ちになれませんでしたが、ようやく心が前に向いてきたように思います。

また心新たに頑張ろうと思います。
どうぞよろしくお願い致します。

外国人観光客の増えた京都。なかでも一番私の目を惹きつけるのは車椅子の旅行客。オシャレで臆する様子が全く見受けられない。同伴の方々も手を出し過ぎず、大概は電動の操作を見守っている姿に惚れ惚れします。
脚に障害があることと人間としての価値には何ら関係がないということをあまりに自然に、気負いなく過ごせるのは、周囲の理解とサポートあってのことなんだと思います。
がんばろー。まだまだな日本。

嬉しい夏の便り/マッサージ師からの情報発信

千葉県から、「夏の便り」が届きました。

ブログを読んで私を応援してくださっている鍼灸マッサージ師の先生からです。

嬉し恥ずかし、うまく言い表す言葉もありませんが、私の経験や言葉が誰かの力になっているならこれ以上嬉しいことはありません。

私たちは、毎日の仕事の中で、他では決して得ることのできない貴重な経験をさせていただいています。

その一番大きなものは、高齢者の豊かな心や生活観や、障害者の深い悲しみ・絶望感に触れることが出来ることです。

介護保険制度が始まってからというもの、個々人の支援者の気持ちとは裏腹にパッケージ化されたサービスの提供に追われてしまう傾向が強くなっているように思います。
不正を防ぐための様々な手続きが煩雑になっていることがそれに拍車をかけているように見えます。

介護保険の充実により、サービスは充実して、一年以上お風呂に入ったこともないなんて人は本当に少なくなりましたが、その陰で心を置き去りにされた高齢者や障害者の気持ちに寄り添うチャンスが少なくなってしまっているように思います。

訪問マッサージは、とにかくその時間マッサージ施術を中心に関わるので、寝物語に聞く話が尽きることはありません。
私一人で独占するのは勿体ない話ばかりです。
この貴重な経験を知ってもらいたくてブログを発信しています。

それから、リハビリテーションや薬ではなく、マッサージ治療だからこそ出来る治療があることを知ってもらいたいと思っています。

先日聞いた話ですが、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の最新のリハビリテーションの考え方は、筋疲労を回復させることなのだそうです。

これは、ALSの患者さんに限らず、全ての方に有効なものであり、マッサージ師の専門分野です。
眼には見えない皮膚の下の筋肉を探っていくには、熟練を必要とします。机上の理論だけではわかることのできない深い世界が広がっているのです。この世界に到達するには我慢が必要です。
しかし我慢した先には確かなものがあることをまだ経験の浅いマッサージ師の先生方に知ってもらいたいと思っています。

そして最後に訪問マッサージの臨床の世界が本当は、超高齢社会の医療費の無駄遣いではなくて、安価で安全な方法であると知って欲しいと思っています。

鍼灸マッサージ師の医療保険の適応のために厚生労働省と交渉を続けて下さっている鍼灸マッサージ師の先生がこう仰っています。

「こんないい治療をしているという事実ではなく、政治家先生に動いてもらえる関係性が現実を左右するのが現実です。」

それが現実かもしれませんが、私たちは自分がどのような医療を受けて死んでいきたいのか自分で選べるはずなのです。
薬や医療処置よりも心地よいマッサージを受けながら最期を迎えたいと思っていただけるように、吹けば飛ぶ塵のような力ですが、諦めないで発信し続けたいと思っています。

皆様の「いいね」が何よりの力です。
読んでいただいて心の底から感謝しています。
これからもどうぞよろしくお願い致します。

自費治療:手指の痺れ

本当はうまくいったことより、うまくいかなかったことの中にこそ、次への大きな「飛躍」の鍵があるように思いますが、施術のこととなると、「失敗した話」を誤解を恐れずに伝えるのは難しいように思います。

でも、本当は、私の日常は、施術の内容も関係性もガッカリすることの連続です。

このブログに書いているのは、そんなガッカリした気持ちの中で、活路を見出したいと、もがいている私に起きたステキな出来事の話です。

(ですので私のリアル仕事を知っている人から、ブログ見たよとか声をかけていただくと、はずかしくてドキドキしていたりします)

治療の方法論に関してはこれでいいと思っても、次の瞬間には奈落の底に突き落とされるようなことの連続です。
そんな時は、自分の考えの足りなさ加減、手技の下手さに本当にガッカリしますが、仕事を続けていく限りは前を向いて進むより他に仕方がありません。

ことに、自費治療の方の場合には、見通しの立て方や説明の甘さが私の課題であることを強く実感する日々です。

保険治療に関しては、計画的な訪問が可能なので、方針の間違いをその都度修正しながら関わり続けることができます。毎日の仕事が即、患者さんの身体を「師」として、勉強させていただいているようなものなのです。

しかし自費治療はそういうわけにはいきません。一回のミスが次の仕事の機会に影響を及ぼしていきます。

自費治療も保険治療で得た経験を元に、主訴の改善を一番にし、リラクゼーション的要素やその満足は第二に考えるように自分の中で徹底していきたいと考えるようになりました。

自信のなさがそれをうまくいかせずにきましたが、どっちつかずの中途半端な結果のほうがよくないはずです。

そんな中で、先日治療させていただいた方は、手指の痺れを訴えておられました。

整形外科の医師からは、頚椎の変形からきていると説明を受けたとのことですが、今は手術の適応ではないようでした。

マッサージ師の習わしとして、つい肩や腰の「コリ」も楽にしてあげたいと考えてしまいます。
しかし、頚椎に問題がある場合、施術により緊張を緩めることで、自分で作っている肩背部のコルセット(つまりコリ)を緩めてしまい症状を悪化させてしまう危険性をはらんでいます。

骨盤・腰部脊柱の彎曲を改善することで、緩やかに時間をかけて頚部にまで影響を及ぼしていくことが肝要です。時間をかけることで、頚部の筋力が自ら正しい方向に進んでいくからです。

その日に症状を改善することが求められてしまうように思いますが、時間をかけていくことが大切なことであることを理解していただくように伝えなければなりません。

今までの私ならどっちつかずで、刺激量を調整できず、手の痺れの治療とともに、肩こりなどの疲労の回復にも手を出してしまっていたように思いますが、今回は手指の痺れというデリケートで、重症化させてしまう危険をはらむ症状だったこともあり、基本に忠実に下肢体幹の調整を中心に施術できました。

すると施術後は、一目でわかるほどに、脊柱の状態が改善し、自分でも驚くほどの変化となりました。

右が術前。左が術後。

もっとも、この方の場合は、日常的に肩こり疲労の回復にマッサージ治療院に通われていたようで、基本的に筋肉が凝り固まっていなかったため、深部の筋肉を整えることで、変化が現れやすかったのかなとは思います。
通われているマッサージ治療院は、この辺りの方には評判のよい治療院で、まさに評判通りだったわけです。

そして、患者さんは、症状の目的に合わせて、通う治療院を選択されているのだということもわかりました。この方は定期的に通われている治療院が嫌なわけでは決してないのです。

施術師としては、オールマイティに身体の問題を解決できる人という信頼を得たいと思いますが、それとこれとは同じではないと身をもって知ることができたのも大きな収穫でした。

治療は始まったところです。
痺れの改善は痛みの消失よりも難しいというのは、この業界の(西洋医学を含めて)の定説なように思います。

いただく対価に見合った仕事ができますように。
最後は神頼みですが、神様が微笑んで下さるのは、たゆまぬ努力の賜物だと思っています。

大往生

先日、この暑さで、106歳の患者さんがお亡くなりになりました。

先日の大きな地震の時から食も細くなってきていたので、暑さのせいというよりは、本当の大往生だったと思います。

それにしても今まで出会ってきたどの方の最期とも違う、本当に立派な逝き方だったように思います。

主治医の先生が仰るには、食べたり飲んだりできなくなり、枯れるように亡くなるのが一番楽な死に方なのだそうです。
極度の脱水で脳内モルヒネが出て、本人も苦しくなく、夢うつつを行ったり来たりしながら亡くなっていけるのだそうです。

この方はもう栄養を吸収できなくなってきていて、血中タンパクが正常値を大きく下回って来ていました。
ですから先生から、「近いうちです」と聞いていました。

そのとおりに、行くたびに衰弱していかれ、傾眠状態が長くなってきていました。

在宅で「枯れるように」逝かれる時は、誰しもこのような感じなのですが、私が経験したことのない凄さは、もういつ心臓が止まってしまうんだろう、大丈夫かなという雰囲気であっても、こちらの声かけに実にしっかりと、お元気な時のままの声で返事をして下さったということなのです。
声をかけたこちらが意外に感じる反応に驚かされ続けました。

そして、亡くなられる前の日、予定外でしたが、この暑さが心配で、休日の夕方様子を伺いに行きました。

4日ぶりの訪問でしたが、一段と痩せてもう長くはないと一目でわかるご様子でした。呼吸状態も少し痰が絡み、深く呼吸をさせてあげたくなるご様子でした。
それで、訪問看護師さんに連絡をしました。看護師さんは、1時間くらい後に訪問すると言って下さいました。

それまでの間、私ができることは、呼吸状態を少しでも楽にしてあげることだと思いました。
それで、呼吸を補助するようなマッサージをした後、ゆっくりと身体を横に向けて、背中をさすりました。
すると
「そこ!」と大きな声で言われました。
(ああ、ここか。はいはい。がんばりますよー。でもどこにこんな大きな声が出せる元気があるんやろー⁉️)

それから、あまりの酷暑でエアコンが効かず室内は30度になっていました。
フィルターを掃除したり扇風機をまわしたりしてみましたが、温度は下がりません。
暑さのせいでしんどいのか、命が尽きようとする状態なのか判別出来ずにいました。どうしたらようの困ってしまいました。
それで、暑い?と尋ねてみました。
するとまた大きな声で「暑い」と言われました。

(ひえー!暑いんや)
すぐにケアマネージャーさんに連絡して「暑いと言われています。エアコンが効きません」と言いました。ケアマネージャーさんはその後すぐに来て下さいました。

この反応には、本当に驚かされました。

きっと大きな疾病もなくただ大往生の末の命の尽きる様というのはこんな感じなのだろうと思いました。
もちろんこの逝き様は、ケアマネージャーさんを中心に、主治医の先生・訪問看護師・ヘルパーさんと私たち訪問マッサージのチームの支えがあってこその最期だったと思います。

また、その時は考える余裕もありませんでしたが、命が尽きようとするその時にマッサージをしてほしい「そこ」を教えてもらったのは初めてでした。

「そこ」は経穴で言えば、多分、「肺兪」「心兪」あたりなのかなと思います。

亡くなられる前に、「マッサージをしてもらうとその日は楽なんや」と言って下さっていました。
でも、それをポイントで教えていただいたことは、これからの私の治療にとても大きな力になると思います。

うまくは言えませんが、こうして106歳の患者さんは立派に「生きたように死んでいかれ」ました。
「生きたように死んで行く」というのは在宅で多くの看取りをされている秦診療所の秦先生の言葉です。

その後参列させていただいたお通夜の席で、御住職が、
「百歳を超えた命というのは、極限の中にあるそうです。
エベレストの登頂もまた極限の中にあるといいますが、その中で一番こわいのは咳やくしゃみで骨折をすることがあるということなのだそうです。

極限にあるということは、このような日常の行為さえも命取りになるということなのでしょう」
と言われていました。

極限を生きたこの方は、私に様々なことを教え、そしていくつもの忘れがたい記憶を残して下さいました。

鰻を見るたびに私の魂はきっとこの患者さんと過ごした時間にタイムスリップするだろうなと思います。そしてずっとお付き合いをしていけるに違いありません。

心よりご冥福をお祈りいたします。

記憶 魂の同化

「石けん使った時は私を思い出してや」

先日、小さくて履けなかった靴をもらっていただいた患者さんから、靴のお礼にとステキなハーブの石けんをいただきました。
その時にこう言って下さいました。

こんなチャーミングな台詞を言われたことも言ったこともありません。この石けんを使い終えてもハーブの石けんを見るたびに思い出すことになりそうです。
本当にありがとうございます。

記憶というのは、その体験した時の自分の魂が、時間と空間に支配されることなくずっとそこにいて、それを思い出す時、今の自分と、その体験した時の自分の魂が同化しているのだと、私に話して下さった方がいます。
全く荒唐無稽な感じで、その時は、その意味さえ理解できないように思いましたが、今ならなんとなくわかるような気がしています。

何かを思い出すとき、私はその時の私と同じ場所と時間と隔たりなくまさにその時の私なんだと感じるのです。
とりわけてもその記憶の相手が亡くなってしまっている時は、思い出す度に、一緒にいるような気になります。

随分と長い時間、訪問マッサージをしてきました。そして多くの方の別れを経験してきました。

自転車で家の前を通った時や、なにか関連するものを目にした時に思い出す記憶も増えてきました。

そんなこんなで、訪問マッサージの仕事は孤独だと思ってきましたが、いつも誰かの何かのことを思い出している時間が増えて、寂しい時間が少なくなってきたように思います。

記憶を近くに感じることで寂しさが紛れるなんて! 歳のなせる技なのかもしれませんね!

何はともあれ、仕事を続けさせていただいている全てに感謝です。

愛と尊厳の大切さ

「その靴いいなあ。どこで買ったん?」

安い靴ですが軽くてバラの模様が入っておしゃれだなと思って購入しました。
けれど、少し小さかったようで、履いていると足底腱が炎症を起こしたので、履くのをあきらめて、もしよければと患者さんにお見せしました。

いつも私の靴を褒めて下さるし、趣味が合うようだからです。良ければ履いてもらうつもりでした。患者さんは喜んでもらって下さいました。

そしてデイサービスに履いて行ったところ、他の利用者さんから、
「いいなぁどこで買ったん」
と聞かれたから

「私の一番大切な人がプレゼントしてくれたから、どこで売ってるかしらんで」

と答えて下さったそうです。

一番大切な人と言ってもらうとは、照れてしまいますが、そんな風に言っていただけるようなことはなにもしていません。

ただ、身体を楽にするということは、心も軽くなるということなのだろうと思います。
またもう一つ私がとても気をつけていることのおかげかなと思います。

それは、患者さんを、「障害者」や「老人」という枠に入れないように、人生を長く生き抜いた歴史を持つ唯一無二の存在として接するようにしていることです。

効率よく介護を受けやすいようにマネージメントを受け(点数や内容に縛りがあるから仕方ないのですが)、寝たきりにならないようリハビリをするべき対象ではなく、
例え、そうするしかないとしても、その心のうちにある気持ちをそのまま拝聴し、ジャッジしないようにしています。

それが、自分をありのままに受け止めてもらっているという安心感につながり、「一番大切な人」という表現をしてくださったのかなと思います。

人間が人間らしく生きるために必要なのは、美味しい食べ物と心地よい空間、清潔な環境だけではなく、やはり、愛と自分の尊厳が守られていると感じられることなのだろうとしみじみ思う今日この頃です。

ついつい自分の仕事がしやすいように相手を理解しがちですが、このお褒めの言葉を胸に刻み、いつも利用者主体でいられるよう頑張りたいと思います。

どうぞよろしくお願いいたします。

脳の不思議、自尊心や愛情を感じる心

もう10年のお付き合いになる患者さんが今年に入り、インフルエンザから体調を崩され、入退院を繰り返しているうちに、食べたり飲んだり出来なくなって来られました。

アルツハイマーの患者さんが、末期に嚥下困難になるのは仕方ないことなのですが、もう長いこと、声も聞いたこともないのに、先日は何か話しているのを耳にすることができていたし、いつもの通り、目でちゃんと返事もしてくださいます。

末期じゃなくて、だだ体調不良なだけなんじゃないかと思ったりもしていました。

こんな想いは私だけじゃなくてケアマネさんたちも同じ気持ちだったようで、

「もしかしたらパーキンソン病からの嚥下困難ってことないですか」と声をかけてきて下さいました。

アルツハイマーの初期は、パーキンソン病やうつ病と判別が難しく、この方も診断が下るまであちこち受診したと聞いていました。

最近ではパーキンソン病ではなくても抗パーキンソン剤を処方することで活気が出ることがあり、私の別の患者さんもおかげで発語が増えたという話をご家族にさせていただきました。

そうして、一度神経内科を受診してみようということになりました。神経内科を受診されるのはもう15年ぶりということでした。

もし、パーキンソン病だったら、抗パーキンソン剤でまたいっぱい話が出来るようになったらすごいねなんてご家族と話しながら受診日を迎えました。

神経内科内科の医師も経過を聞き、本人を見て、「そうね。拘縮もないね。とりあえずCTを撮ってみましょう。」と言って下さったそうです。

しかし、CT画像が出来上がった時のお話は、

「治療の段階はもう終わっていて、末期の末期。今まで食べられていたことが不思議なくらいで、明日に亡くなっても不思議じゃない状態です。もう治療出来る段階にはなくて、あとは自然の流れにまかせていくのがいい」

というものでした。

それくらい脳は萎縮して真っ黒に写っていたのだそうです。

少しずつ弱って来られていたので、こういう日を覚悟されていたご家族ですが、その眼は涙で潤んでいました。

はっきりと現実を知らされた私も、思わずこぼれる涙を抑えることが出来ませんでした。
なんだか、今までの長い時間がこれからも続いていくような気に勝手になっていたように思います。

眼を閉じまま、その話を聞いていた患者さんは、最初の出会いの時にはすでに、うまく話すことが出来なくなっていらっしゃったのですが、いつも私と、ご家族の話を聞いて笑ったり、上手に相の手を入れて会話に入って来られるのが常でした。この時も、3人でいたのは久しぶりだったのですが、大きくニヤリと返事をして下さり、脳って何?と思わないではいられないご様子でした。

でも眼を閉じていらしたので、私たちの涙は伝わらず、受診の結果をただ明るく話している風に聞こえたのか、自分が「いらないもの」だと感じていらっしゃるのではないなかという気がしました。

ですので、
「違うよ。みんな泣いてるよ。今までも奇跡だから、これからまだ奇跡を起こしてくれると思ってるよ」と伝えました。

すると患者さんの眼にも涙が浮かびました。

脳って本当に不思議です。

食べることや生きるための基本動作さえ出来なくなるのに、自尊心や愛情を感じる心は元気な時のままなのです。

誰かが死に向かって行くとき、私は出来るだけ冷静に、いつも通りに接するようにしています。今は生きてるから今まで通りが一番の安心な時間になるように思うからです。

でもこの患者さんは、アルツハイマーという病気になることで、自分の存在が悪なんじゃないかというような不安と闘い続けて来られたように思います。ですから、今回は10年分の出会いの感謝をいっぱい表現しながら、思いっきりうろたえて、最期の時を迎えたいと思います。

アルツハイマーでも何にも出来なくても生きていいやん。今まで必死で頑張ってきたやん。楽して人の世話になったらいいやん。私は来るたび癒してもらってるやん。ありがとうですやん。

いっぱいいっぱいもっといっぱい、その感謝を伝えてあげていただろうかと振り返ってしまいそうです。

今さらながら、いっぱい伝えていきたいと思います。

猫って見てるだけで、こっちまでのんびりとした気持ちになる。あくせく何かに囚われてばかりの自分が馬鹿らしく思える。認知症の人と付き合ってるとそういう同じような気持ちにさせられる。

拘縮予防具のご紹介

あまりの被害の大きさに言葉もありませんが、先日の大雨で被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。

輝く太陽や穏やに吹く風が愛おしく、毎日同じように来る日常が素晴らしいのだと思い知らされました。

さて、今回は施設に入所されている患者さんの体の拘縮予防具のご紹介です。これは施設職員さんの手作りだそうです。

この方には、自分で出来る動作がなくなっていく中で、せめて自分の手でものが食べられたり、うまく使える動作が増えて欲しいというご家族のご希望により訪問させていただくようになりました。

脳梗塞による不全麻痺(全く動かないことはない状態)の後、本人の気持ちを無視したと思われるリハビリの中で、動いていた方の手まで動かなくなっていったそうです。
そういう経緯の中でご家族がなんとか使える方の手だけでも使って暮らして欲しいと願われていました。

うまく身体を使うことが出来なくなってしまった身体は全身の関節が硬くなり、筋萎縮も進んでいました。
少しでも無理に伸ばしたり曲げたりをすると、筋萎縮も著しいため、関節可動域の拡大は、即靭帯のゆるみになり、その結果、身体の防御本能から、さらにまた筋緊張が増してしまうということになっていました。

こうなると、その日に結果を出すことより、長い時間をかけて自然に伸びていくような取り組みが大切になってきます。

積極的な関節可動域の拡大を目的とした運動よりも、筋萎縮の改善や生活での変化をもたらし、使える身体に変えていくことで全身の関節拘縮を改善していく方法です。

手を使って欲しいというようなはっきりとした目標があると、マイナス面より、つい結果を出すことを優先しがちですが、ご家族が大変理解が深く、手が使えるようになって欲しいという希望はありつつも、お母さんの気持ちを一番にとお考えの方でしたので、出来る限りゆっくり患者さん本人に意思・意欲を大切に関わらせていただくことができてきたように思います。

そして少しずつ、身体が動く部分も増え、少しずつ関係性もよくなってきてるかなと思えるのですが、こんなによくなりましたよと報告するほどには大きな変化もなく、やはり、あと少し生活に結びつくなにかが欲しいなぁと思いながら訪問を続けてきています。

そんな中で、指が自然に伸びるようにと、なんと施設の職員さんが考えつかれた予防具です。

見た目も可愛く、矯正的な感じもなく、手にぴったりフィットした感じが最高です。

関節拘縮の予防具も私たちの施術と同じことです。強い力で関節を拡げるような矯正力の強いものは、その反動でどんどん関節拘縮を進ませてしまうのです。
ですから手袋の中にちぎったスポンジか入っているこれは、患者さんの手の力に負けながらも、その余裕を作る優れものに見えます。

ちなみに中に入っているのは台所用スポンジだそうです。軍手では手が荒れてしまったということでした。

愛ある作品にうっとりしました。心なしか指が伸びて楽そうです。

血行が悪くなると爪水虫になるのですが、それも治ってきて、喜んでいるところにこの予防具の登場!
これからも焦らずあきらめず施術を続けていきたいと思います。

写真は爪水虫が取れて、きれいな爪が伸びてきたところのものです。

「死んでもつきあいしてや」

「死んでもつきあいしてや」

106歳の患者さんは、あの地震の日以来すっかり体調を崩されていて、主治医の先生からもお迎えが近いだろうと言われています。

訪問する時も、お顔をみるまでは大丈夫かなとドキドキです。先日は、定期訪問ではない日にもかかわらず、心配で様子を伺いました。思ったよりお元気で、声もしっかりしています。すると、ほっとした私に「死んでもつきあいしてや」とおっしゃいました。

「………?」

まだまだいてやと言うのが精一杯でしたが、こんなことを言われたこともなく、真意がつかめません。今から思うとちゃんと尋ねてみれば良かったなと思いますが、不意を突かれて返答に窮してしまったのです。

「死んでも」の「つきあい」とは、お墓まいりやお葬式のことなのか、あの世とこの世で交信するということなのか、自分があの世に行っても私の心の中に置いておいておけということなのか。

いずれにしても、私につきあい続けてと言ってくださっている有り難い言葉に変わりはないように思います。

お迎えが来る前に確かめておきたいとは思いますが、こういう話は旬が過ぎると同じ会話にはならないのが常なので、もう一度ご本人の口から同じ言葉が出るのを待つしかないかもしれません。

とはいえ、
「死んでもつきあい」させてもらうので、もう少しこちらにいてもらえると嬉しいなと思います。

106歳の患者さんには翻弄されっぱなしですが、それが、私にとっては大きな魅力なのかもしれませんね。

この日はこの後お世話してはる姪御さんがいらっしゃって、元気な頃にどんなに酷い人だったかを聞かされました。
長い人生について考えましたが、前半部分だけで、終わりました。お迎えが来た後にいつか書きたいなと思います。

母が亡くなり事あるごとに母親の言ってたことを思い出します。
亡くなった人に対して「心の中にいる」から寂しくないとよく聞いてきてもピンと来なかったけれど、こういうことかとようやくわかった気がしています。

手の温もりは機械に代えられない

オックスフォード大学が認定 あと10年で「消える職業」「なくなる仕事」(2014/11/8)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/40925

—-ここから上記記事引用———

『「コンピューターの技術革新がすさまじい勢いで進む中で、これまで人間にしかできないと思われていた仕事がロボットなどの機械に代わられようとしています。

たとえば、『Google Car』に代表されるような無人で走る自動運転車は、これから世界中に行き渡ります。そうなれば、タクシーやトラックの運転手は仕事を失うのです。

これはほんの一例で、機械によって代わられる人間の仕事は非常に多岐にわたります。私は、米国労働省のデータに基づいて、702の職種が今後どれだけコンピューター技術によって自動化されるかを分析しました。

その結果、今後10~20年程度で、米国の総雇用者の約47%の仕事が自動化されるリスクが高いという結論に至ったのです」

人間が行う仕事の約半分が機械に奪われる—そんな衝撃的な予測をするのは、英オックスフォード大学でAI(人工知能)などの研究を行うマイケル・A・オズボーン准教授である。』

——引用ここまで———

4年前の記事ですが、オックスフォード大学のオズボーン博士の発表は衝撃的なもので、実際にAIによってどんどん仕事がとって代わられてきているのが現状だと思います。

先日、患者さんとこの話をしながら施術していました。

消えない仕事のトップは、
リハビリ師らしいですと私が言うと、
患者さんが、

「そうかな。
一番消えないのはマッサージ師だと思うよ。
人工知能は、そのうち関節の位置も筋力の強さも自動で測ることができるようになるんじゃないかな。でも手の温もりは機械に代えられないと思うよ。マッサージはAIには負けないよ」と言ってくださいました。

なるほどそうかもしれないなぁと思いました。
なぜならリハビリの今の最先端はまさにロボットリハビリだからです。
ロボットリハビリとは関節の動きをロボットがサポートすることで正常な筋肉の動きを作るリハビリで、今はまだ限られた施設でしか受けることの出来ないリハビリですが、安価でリース出来るようになれば在宅リハビリの強い味方になることは間違いないと思います。

人の寂しさは人の温もりを必要とするというのは、なんとなく肌感覚で理解出来るところがあるように思います。

寝たきりで、ほとんど自分では何も出来ない患者さんに、床ずれが出来ないように、あるいは、肺炎になりにくいように、あるいは排便が催すように、血流の改善を図りますが、体力が落ちてきて活気がなくなってしまった時、患者さんが望んでいるのは血流の改善なんてそういう小さなことではない気がするのです。

あまりいい例えではないかもしれませんが、雨の中に捨てられた仔犬みたいに、行くところもなくて、ただただ辛くて不安で心が震えているそんな様な気持ちでいらっしゃるような気がするのです。

そんな時、お部屋に二人きりな時は、こっそり、座位保持をしてもらうのに、私の身体をぴったりと寄せて、一緒に座りながらしばらくハグしていることがあります。
起こせないときは、上から私の耳を患者さんの胸に置いて、心臓と肺の音を聞きながらただただ身体の温もりを伝えることがあります。

すると、患者さんの緊張が解けるのか、動かなかった腸がグルグルと音を立てて動いたり、おしっこがジャーと出たりすることがあるのです。

あまり褒められたやり方ではないかもしれませんが、人には、肌の触れ合う力が一番必要な時があるように思います。それは他の何かに代えることの出来ない心の安らぎなのかなと思います。

AIに負けないように、指先や手のひらから温もりを伝えることの出来るマッサージ師でいられるように、寄り添う気持ちを大切にしていきたいと思います。

患者さんが作られた玉ねぎ。
メロンみたいに大きい玉ねぎを初めて見ました。愛情たっぷりで玉ねぎも大きく育ったんじゃないかなぁ。