Dさんは、本当に陽気で人を褒める天才です。
今は、自分で歩けなくなってしまわれましたが、陽気な性格は変わらず、言葉巧みに誉めるのがとても上手なのです。
お上手とわかってはいても、ついつい顔がほころんでしまうようなセリフを次々と仰います。
「あんたさんみたいな奥さん持って旦那さんは幸せやろ。『お前今日はどうやったんや』『あなたのおかげで今日も幸せ💕』」
と何も言わないのに一人で勝手に話しを膨らませていかれます。
「いつ見たんですか?」と返すと
「そんなもん、みんでもわかる」と続くのです。
そんな調子で、施術中は、ずっと話して笑ってばかりです。
いろんなことをわかったり、覚えたりしていても社会的に生活を営む力は衰えたり、失われたりするのですから、認知症というのは本当に不思議な病気です。
長年、福祉に携わり、数えきれない人のマネージメントをし、ヘルパーやデイサービスの導入で在宅生活を支えてきた友人が、
「ボケないと、デイサービスには行けないわよ。無理。ヘルパーさんにきてもらうのだって、ボケないと無理。認知症は神様からのプレゼントなのよ」と話してくれました。
自分がしてきたやり方や流儀があればなかなか他人のやり方を受け入れたり、裸をさらしてお風呂に入れてもらうなどできないというのです。
私たちは、知らず知らずに、心のどこかで、「老人」や「障害者」を対等な自分と同じような人間としてではなく、「世話される」「こちらの善意を素直に受け入れるべき」存在として見ているのかなと思います。
尊重したいけど、実際にサービスを運営するには無理があるという理由をつけているうちに、それを当たり前のサービスとして運営し、他の選択肢はないというように、ある意味「強要」しているのかもしれません。
そこで、自分の力が衰え、他人の世話を受け入れるしかない状況を生き抜くしかない時、長年社会的に築き上げてきた自分を失い、ただ相手の心だけを基準として感じるように脳が「進化」したのが認知症じゃないかと思ったりします。
だから、認知症の人は、未熟さから来る失敗や失礼により誰かを嫌ったりすることはなくて、大切にしたいと思っている思いを評価して、大きな心で許すことが出来るのかなと思ったりするのです。
反対にどんなに丁寧な対応をしても心がそこになければすぐに見破ってしまえるようにも思います。
だから認知症の方と付き合う時は、いつも真剣勝負です。
心の中が不思議とバレバレで、次の仕事の段取りを考えていたら、帰らせないように怒り出されたり、またプライベートな悩みを抱えていてもすぐに見透かされ何も言わないのに「大丈夫だよ」なんて言って、仕事中に私を号泣させることもあります。
こんな対応の中で、私は、いつも認知症の患者さんから包んでもらい、甘やかしていただき、そしてとても癒されているように思います。
ところで、いつもみんなを癒してくれていた陽気なDさんですが、最近様子がおかしくなってしまいました。
表情が乏しくなり、常に誰かに側にいて欲しいという不安の訴えが強くなって、あの陽気な姿は消えてしまったようです。
周りの皆さんも様々フォローされていますがなかなか事態が好転しません。
認知症の人は、繊細すぎるが故に、何かのきっかけで悪い方に回り出すと、普通以上に、雪だるま式に加速してしまう事が多いように思います。
だからこそ、安定した状態で過ごしていただけるよう関わることは何よりも大切なのだろうと思います。
今は、なんとかDさんが、もう一度陽気なDさんに戻れる関わりが出来たらと思っています。
ご恩返しにがんばらないと!