私たちの日々の治療はうまくいったりいかなかったりの繰り返しです。
高齢者になると不定愁訴や如何ともしがたい訴えが多く、歳のせいと諦めのつかない訴えに、お医者様であっても日々薬の調整に苦労されています。私たちの手技療法であればなおさらのことです。
私の治療が予想どおりあるいは予想以上の結果が出ても、「エビデンスが得られないから、一般化出来ない。職人技では医療として科学的根拠を得られない」と、在宅チームでよくご一緒する医師に言われます。私は医療とはそういうものか、仕方ないと考えてきました。
しかしながらアメリカの手技療法の本を読み、日本の理学療法の話を聞くにつれ、本当かなと思うようになってきました。アメリカからやってくる療法は誰でも出来ます的なプログラムは作ってありますが、その前提の評価の部分は繊細な指先の感覚から捉えて考えついたんだろうと思うことが多いからです。
なぜなら、私が筋膜療法で治療しているというのは、筋膜療法を学んだからでなく、全身を指先の感覚だけでみつづけたら、筋膜療法と同じ理解に至ったからなのです。こう表現するのは伝わり易いからに過ぎず、筋膜療法は特別なことでなく、誠実に経験を積んだ治療師が指先の感覚で身体を見ていけばわかることだと思っているからです。
あくまで私の見ている範囲のことですが、理学療法士は角度を図り、プログラムを作り、誰でも同じ治療が出来ることを前提に治療を組み立てていきます。しかし問題は患者の身体です。単純に角度計で現れない筋萎縮や、可動性の非常に少ない部分の関節拘縮(元々可動性が低いので可動域の測定が困難)の存在が滑らかな動きを阻害していることがよくあります。そこへの理解は患者の身体を嫌という程触り、正常と異常がわかることでしか、理解出来ないように思います。まさに職人の世界で、誰でもわかるとはとても思えません。そこへの理解なく、治療を施しても、いい結果が現れないのは当然のことです。
海外で考え出された療法が、理学療法士・作業療法士により、日本に輸入され、なかなかいい結果が出ないのはそういうことではないかと思います。もちろん熟練した理学療法士であれば結果を出されていると思います。
だから、本当に大切なのは、誰でも同じことが出来る治療ではなく、患者の身体を正確に把握できる力量を持った施術者ではないかと思います。
料理人や美容師、教師、写真家どんな職業も同じことをしたら同じ結果が出ないのは腕の差だと考えるのに、こと命にかかわる最も大切な医療保険における治療に関して、個人の腕より科学的根拠に重きを置き、資格者になれば同じことが出来ることが大切と考えるのはおかしなことではないかと思います。
医療保険を適用するのに必要な考え方かもしれませんが、それは必要条件であり、医療の評価を決める絶対条件になるのは本末転倒な気がします。
まあ、ここで吠えても仕方がないのですが。
本当は今日のブログには50代男性の患者様と私たちの今年の取り組みについて書こうと考えていました――これは、今年新たな気持ちで立ち向かおうとする話の前提です。みんなが歩行は無理だと考えている方の歩行の可能性に、昨年までは消極的に関わってきましたが、今年はもう少し積極的に関わるぞという決意を次回に書こうと思います。